琵琶湖周航の歌の誕生

  琶湖周航の歌は、長い間、作曲者不明のまま多くの方々に愛唱されてきました。 
 既に、高島市のホームページや書籍・文献などで発表されておりご存知の方も多いと思いますが、作曲者(原曲)が、新潟市(旧新津市)生誕の吉田千秋であり、作詞者の口太郎は長野県岡谷市の出身です。

 このように滋賀県民のみならず多くの人達に、時代を超え今もなお歌い継がれていることは、この誕生の地である高島市今津町の宝物であると共に長野、新潟両県の誇りでもあります。改めて故郷滋賀との強い絆を感じます。この度の「琵琶湖周航の歌の誕生・・・」の編集にあたり、下記の皆様方には取材及び資料の提供転載等のご協力を頂きましたことに対しお礼を申し上げます。

 ・吉田文庫 「ちあき」の会
 ・琵琶湖就航の歌資料館<・環境を守るいまづの会
 ・阿賀野市立吉田東伍記念博物館
 ・新潟市秋葉区役・新潟県立図書館
 ・高島市役所今津支所
                                                2006.10.25
                                                新潟滋賀県人会
                                                事務局 市井康三

琵琶湖周航の歌の誕生 
 大正6年、旧制三高(現京都大学)のボート部員が 琵琶湖周航の途中、湖畔の今津で宿をとった。
 その夜、部員の小口太郎が一片の詩作り、部員に紹介した。部員達は、当時学生達の間で愛唱されていた 「ひつじぐさ」というメロディーにこの詩を乗せて歌った。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。 
 琵琶湖の美しい自然と多感な青春、周航のロマンを情緒豊かに歌い上げたこの歌は高島市今津町で 生まれました。多くの歌手や演奏家などにより、広く国民に親しれています.
   
 周航の歌が刻まれた碑が建てられ、桟橋の突端には赤い泊り火」がある。太古からこの美しい琵琶湖の風景が、周航の歌を生んだ 

琵琶湖周航の基地・今津港
 
 琵琶湖周航の歌
 1.われは湖の子 さすらいの
  旅にしあれば しみじみと
  のぼる狭霧や さざなみの
  志賀の都よ いざさらば

2.松は緑に 砂白き
  雄松が里の 乙女子は
  赤い椿の 森影に
  はかない恋に 泣くとかや

3.波のまにまに 漂えば
  赤い泊火 なつかしみ
  行方定めぬ 波枕
  今日は今津か長浜
 4.瑠璃の花園 珊瑚の宮
  古い伝えの 竹生島
  仏の御手に いだかれて
  ねむれ 乙女子 やすらけく

5.矢の根は 深く埋もれて
  夏草しげき 堀のあと
  古城にひとり 佇めば
  比良も伊吹も 夢のごと

6.西国十番 長命寺
  汚(けが)れの現世(うっしょ) 遠く去りて
  黄金の波に いざ漕がん
  語れ我が友 熱き心
 
琵琶湖周航の歌 (京大合唱団による斉唱)
 
琵琶湖周航の歌(小合合唱の会
新潟市(旧新津市)、千秋のつくった曲を歌う会
 

 旧制三高ボート部の琵琶湖就航 
 旧制三高では明治26年に初めて琵琶湖周航が行われ、以後学生達による恒例行事になっており 昭和15年まで行われていました。
 三保が崎から西岸を北上する時計回のコース で、4泊5日、もしくは3泊4日の日程。 
   フィックス艇

  琵琶湖就航の歌資料館
  高島市今津町では、琵琶湖周航の歌の誕生の 6月28日に近い日曜日に音楽祭開催されています。
滋賀県内はもとより近県から多くの合唱団 が集まり、琵琶湖周航の歌で一色になる。
 館内には、WATER LLIESを始め・七里ガ浜の 哀歌・ひつじ草・琵琶湖哀歌など全26曲が聴ける。
 
 コーナー、当時の今津の様子を示す貴重な写真の展示コーナー、小口太郎・吉田千秋のコーナー、ヒツジグサのパネル展示コーナーフィックス艇展示コーナーが設置されています。
 
 平成16年 6月16日(土)〜17日(日)「琵琶湖就航の歌開示90周年記念事業」としてクルージング、講演会、音楽祭が盛大に開催されます。
   琵琶湖周航の歌資料館(今津町)
 ※平成19年全国滋賀県人会連合会定時総会の行事「故郷訪問旅行」の観光コースに組み込まれました

 作曲者さがし 
  昭和46年(1971年)、歌手加藤登紀子が歌った「琵琶湖周航の歌」が大ヒットした頃、作詞・作曲者が不明、ないしは共に小口太郎と楽譜等に記載されていた。その頃「本当の作曲者は誰なのか」ということへの関心が関係者の間で高まっていた。
 
 昭和50年(1975)、今津町では「琵琶湖周航の歌」開示75周 年の記念事業が「幻の千秋」のまま準備されていた。
 
 そのさなか、平成5年(1993年)「吉田千秋は大正4年に東京から新潟に 転居している」との手がかりに「作曲家の消息を教えて」の記事を新潟日報に載せ、最後の望みを託した。

 吉田 千秋
  その記事が、千秋の父親吉田東吾博士の研究者の目に止まった。「東吾博士の二男に間違いない」。歌が歌われてから75年目の夏、その時、吉田千秋が初めて世に出たのである。
 
 その記事が、千秋の父親吉田東吾博士の研究者の目に止まった。「東吾博士の二男に間違いない」。
 歌が歌われてから75年目の夏、その時吉田千秋が初めて世に出たのである。
   東京農業大学17歳
  千秋は小さい頃から、外国語、地理、動物、植物、天文、博物学に興味を持ち始めました。外国語は7ヶ国語ほどを使い、盛んに海外文通をしました。
 
 ローマ字にも関心を示し、後に学者と誌上論争したこともありした。 又、日本語を大切にし、「海泡集(うみあわしゅう)」という 自作の和歌を遺しています。
 
一方では綿密な挿絵をいれた自筆の動物分類学 「鳥類分類学」等をまとめたりしました。

  又、自宅の 敷地に小さな花壇を作り「吉田農園」「大鹿野園」と 名付けて色々な花を植え、栽培記録を書いています。  
   鳥類分類学
  やがて肺結核 の為退学すると短い間、入院しました。 
 20歳の時です。 わくわくしながら毎日を過ごす彼は次第に咳や微熱に悩まされるようになりました。
 それでも19歳の初春には京都、伊勢を旅行することが出来ました。この時、琵琶湖を見たかも知れません。 
 そこでキリスト教と賛美歌に触れて音楽に傾倒し、自作の曲や歌詞を披露することになりました。
 
 彼が英国の詩「Water lilies」を翻訳したのは18歳の時でしたが、この訳詩に自分でつくった曲をつけた「ひつじぐさ」が「音楽界」に掲載されたのは20歳の時です。  
 
 琵琶湖周航の歌の原曲とされる「ひつじぐさ」の楽譜  音楽界・大正4年8月号
 
   彼は11歳から小冊子「SHONEN」を何号も 手作りし天文、動物等について書ました。それは彼と仲間達との回覧誌「AKEBONO」に発展しす。
 
 ここで彼は宗教を論じ、歌を作り、挿絵を書き、花つくり日誌を連載し・・・と様々な事柄を毎号書き続けました。いつも病勢の悪化にさいなまれなも、彼にとってこの世は光と喜びに溢れていたのでしょう・・・。興味と探究心は尽きることがありませんでした。 
  彼は11歳から小冊子「SHONEN」を何号も 手作りし天文、動物等について書ました。それは彼と仲間達との回覧誌「AKEBONO」に発展しす。
 ここで彼は宗教を論じ、歌を作り、挿絵を書き、花つくり日誌を連載し・・・と様々な事柄を毎号書き続けました。いつも病勢の悪化にさいなまれなも、彼にとってこの世は光と喜びに溢れていたのでしょう・・・。興味と探究心は尽きることがありませんでした。

  彼は村のキリスト教の集会に参加して賛美歌の指導をしました。彼が作曲した「ふるさとちかし」は何年も歌い継がれました。又、子供達の 手書きのカルタには、きれいな花が咲き、コミカルな妖怪たちが踊っています。

 けれども、熱意を持って始めた方言の研究を続ける時間は無かったのです。
 23歳の秋に東京で絶望的な自分の病状を知ると故郷に戻り、出迎えてくれた祖父母に挨拶しました。「どうせ死ぬんなら大鹿でと思って帰ってきました」。
 彼が永眠したのは24歳になったばかりの2月。自ら慈しんだ小さな花園に春が来るのを待たずに・・・。
 
 彼が植えたアジサイやスイセンが、今も生家に咲き続けている。 二階の自室からは樹々の間から秋葉山、そして 田上の山々が見渡せた。しかし広い閑寂な環境も千生ながらえさせることはなかった。
 生家で亡くなるのは24歳。ひつじ年に生まれ、ひつじ年で亡くなっている。
 
 千秋の生家は平成15年、国の登録文化財の指定を受けた。地方の宝の一つとして、これからも活用されていくことだろう。

 千秋年譜  
西暦  和暦   年齢 吉田千秋 略歴 
 1897  明 治30 2 歳  上京 
 1901 明治 34  6 歳  東京の赤城尋常小学校に入学
同年帰郷し小鹿尋常小学校に転校 
 1905  明治 38 10 歳  新津小学校高等科入学
 1906 明治 39  11 歳  東京農業大学予科入学
「SH0NEN」216号で終刊
 1907 明治 40  12 歳    東京府立第四中学校入学、肺病悪化
自宅に吉田農園をつくる
 1909 明治 42  14 歳  動物への興味
外国地理を好む
 1910  明治 43 15 歳   吉田農園を吉田植物園と改称
 1912  明治 45  17 歳 東京農業大学予科入学
「SH0NEN」216号で終刊
 1913  大正 2 18 歳 健康不安定により休学
音楽への興味
 1914 大正 3 19 歳  東京農業大学予科を健康上の理由で退学
結核療養所に入院、秋退院
1915 大正 4 20 歳 6月帰郷 パラチフスにかかる
「ひつじぐさ」訳詞作曲 
1916  大正 5  21祭 「AkEBONO」創刊 
1917  大正 6   22 歳 3月帰郷、園芸に熱中
吉田農園→大鹿農園に改称、最終的に大鹿野園と変更 
 1918 大正 7  23 歳 東京での治療、秋帰郷
12月病床につく 
 1919 大正 8  24 歳 2月24日死去 
 1921 大正 10    「AKEBONO」57号で終刊 

 
ひつじぐさ
  名は、開花時刻が未の刻(午後2時頃)であることに由来する。日本で自生する唯一のスイレンであるが、絶滅が危惧されている。

 英詩「WATER LILIES」の千秋の訳詩が「睡蓮(ひつじぐさ)」である。この訳詩に自作の曲をつけたのが「ひつじぐさjとなった。

 睡蓮忌
 毎年、吉田千秋の命日に当る2月24日に近い日曜日には生家において「睡蓮忌」が催され、「ちあき」の会会員の方を始め各層に亘る年代、各界の方々が参加され、講演会 ・合唱団による合唱・器楽演奏などが行われす。    
  3年前より「琵琶湖の環境を守る会」からも 参加されています。


 千秋は短い生涯の中で、外国語・地理・動物・植物・天文・方言・博物・歌・詩・宗教など様々な分野に興味を示し、多感な感受性と才能でこれらを探求し多数の作品、記録を遺した。これらを概観すれば、父東伍の法と似ていることに気がつく。短い凝縮された生涯の中でこれらのものを遺したことが、私達により一層、敬愛と哀感を感じさせます   

  吉田 東伍博士
 日本歴史地理学のパイオニアである吉田東吾は、日本全土の「郷土」を集大成した全国地誌「大日本地名辞書」を13年かけて粉骨砕身、独力で編纂しました。東伍の著は既刊書約20種45巻。
 紀要、雑誌・新聞の掲載論文などは300余編に及びます。新潟ではむしろ東伍の方が有名かもしれません。
 阿賀野市立吉田東伍記念博物館

 関係施設・団体・文献等
・「ちあき」の会事務局
  〒956-0004 新潟市秋葉区大鹿624 
         吉田文庫 内
  Tel&Fax 0250-23-7070

・「琵琶湖周航の歌資料館」
  〒520-1622 滋賀県高島市今津町中沼1-5-7
  Tel&Fax 0740-22-2108

・阿賀野市立「吉田東伍記念博物館」
  〒959-2221 新潟県阿賀野市保1725-1
  Tel  0250-68-1200
  Fax 0250-68-5016
・「小口太郎顕彰碑」(長野県岡谷市岡谷湖畔園)

・「小口太郎顕彰碑等保存会」
  〒394-0029 長野県岡谷市幸町8-1 
          岡谷市役所内
  Tel 0266-23- 4811 (代表)
  Fax 0266-23-6448  
・「吉田千秋研究I吉田千秋と植物」
  倉重祐二著(吉田 文庫)

・「琵琶湖周航の歌誕生の謎」 
  作曲者吉田千秋の遺言
  小菅宏著(NHK出版)

・「琵琶湖周航の歌 うたの心」
  琵琶湖周航の歌発行会(海曜社)

・「琵琶湖周航の歌の世界」 相楽利満著
  (フィックス艇建造委員会・世話人会)

・「小口太郎と琵琶湖周航の歌」
  保田安雄編(学友社) ほか