平成19年(2007年)第3回北越四滋賀県人会同親睦旅行が開催されました

 昨年は10月の滋賀県人会世界大会の開催により休催となりましたが、今回は新たに福井滋賀県人会の
参加されました。
 石川滋賀県人会各位 のご尽力にお礼申上げます。
 ・期日:2008年10月13日(月)〜14日(火)
 ・宿泊:山中温泉 “満開の宿” お花見九兵衛
 ・参加県人会:福井(3名)・石川(8名)・富山(5名)・新潟(2名) 計18名
                                              2008.10.23
                                              新潟滋賀県人会 市井 康三
 
 10月13日(月) 

  金沢駅もてなし広場
金沢駅東口/もてなし広場・鼓門   石川杉本会長と  

  「箔巧館」 
  工房前で   富山 宇於崎会長 
            「金沢箔とは」
 明治以降、金沢の製箔がその生産の独占的な地位を確立したのは、金銀の有する伸展力ぎりぎりまで金箔を伸ばす職人の技術と、この土地の気候、水質の良さを上げることができます。
 全国生産高の98%以上が金沢で作られています。
         「金箔の希少技」
 硬貨三分の一の金を、畳一畳の大きさまで延ばす職人技の世界です。 
 作業工程を見学ましたが、現在は機械で叩いていま それでも材料(箔)のセッティング調整は手作業です。以前は手叩きでしたので驚くべきき希少技です。

    白山信仰の寺 「那谷寺」


大非閣拝殿
への石段



金堂 華王殿



休憩所で



奇岩遊仙境前で



奇岩遊仙境

 石川県 九谷焼美術館 
 九谷焼の背景(九谷焼の始まり
 大聖寺藩初代藩主の前田利治は、領内の九谷村で、鉱山開発中に陶石が発見されたのを契機に、磁器生産を企画。九谷鉱山の開発に従事して、錬金の役を務めていた後藤才次郎を肥前有田に陶業技術修得に遣わした。後藤は帰藩後、九谷の地で窯を築き、田村権左右衛門を指導して、明暦元年(1655)頃に色絵磁器生産を始めた。これが九谷焼生産のはじまりである。
 その後、この事業は二代藩主利明が引き継いだ。この時期に焼成された作品は「古九谷」と呼ばれ、後の時代の「再興九谷」とは一線を画す。

 古九谷の色絵技法は、力強い呉須の線描の上に、絵の具を厚く盛り上げるような方法である。色調は紫・緑・黄を主調とし、補色として紺青・赤を使用している。作品は花鳥、山水、風物を題材に豪放な味わいを醸し出しているが、一定の画風というものは存在せず、極めて変化に富んでいる。中でも赤を使わず「塗埋手」の手法で描かれた「青手古九谷」は強烈な印象を与える。 
                                              (九谷焼サイトより転載)
 
  〜本日の観光行程を終え宿泊先である[満開の宿 お花見九兵衛」へ向かいました〜

満開の宿 「お花見九兵衛」 
 


九兵衛前


ロビーで休憩


ロビーで休憩 

  合同懇親会  
 初参加の福井滋賀県人会3名、石川滋賀県人9名、富山滋賀県人会4名、新潟滋賀県人会2名計18名が自己紹介、カラオケ大会、別所さんの詩吟、小脇さんのキーボード演奏と盛り上がりました。
 最後は全員輪になって「琵琶湖周航の歌」を合唱しました。
 お開き後引き続き部屋で歓談、無事一日目を終えました。 


参加者

富山 宇於崎会長
ご夫妻  


福井 山中会長 


  3県人会会会長
   女性陣→   琵琶湖周航の歌合唱→  

 10月14日(火) 

「遊仙峡」散策  
 翌早朝6:30より有志10名でホテル付近の「遊仙峡」の散策に出ました。
 紅葉前ではありましたが、朝の新鮮なマイナスイオンを一杯吸い込みリフレシュ。  
 
 大聖寺川に架かるこおろぎ橋の
たもとで
あやとり橋
より渓谷を見る 
 渓谷で
宇於崎会長・市井
「あやとり橋」 
草月流家元・勅使河原宏氏デザイン 

 兼六園・金沢城公園 
兼六園
 水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園の一つ、兼六園。兼六園は江戸時代の代表的な大名庭園として、加賀歴代藩主により、長い歳月をかけて形づくられてきました。

 「廻遊式」の要素を取り入れながら、様々な時代の庭園手法をも駆使して総合的につくられた庭です。土地の広さを最大に活かして、庭のなかに大きな池を穿ち、築山(つきやま)を築き、御亭(おちん)や茶屋を点在させ、それらに立ち寄りながら全体を遊覧できる庭園です 
 
 金沢城公園
 天正11年(1583)年、前田利家が金沢城に入り、本格的な城づくりが始められました。当時は場内に武家屋敷がありました。
 その後落雷により天守閣が焼失しましたが再建されませんでした。
 寛永8(1631)年火災により武家屋敷は場外に出され区画整理と整備がされ、宝永9(1759)年の火災では、城の殆んどが焼失し、二の丸を中心とした実用的な整備、再建が行われました。
 今回復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、文化5(1808)年の二の丸火災の後再建され、明治5(1881)年の火災で焼失したもので、安政期頃の景観を再現したものです。
 豊臣親藩時代から始まり、厳しい中央集権体制下の徳川幕府時代でゆるぎない雄藩の地位、体制をを維持し、後世に文化遺産を残すことができたのは、特に加賀藩の優れた政治・経済・文化を融合、統治された賜物かと推察します。 


霞ヶ池


霞ヶ池前で


ガイドさんの説明を聞く


石川門



三の丸広場・橋爪門続櫓・五十五間長屋


三の丸広場前で

石垣工事
 <切り込みハギ積み>

 旧制四校(現金沢大学) 
 
 金沢の四高(現金沢大学)漕艇部は、大正から昭和にかけて琵琶湖瀬田川コースで開催される全国高校(旧制)大会(当時インターハイと呼称)において優勝回数を誇る強豪であった。
 昭和16年度も第14回大会に備え瀬田川合宿を行い、最後の仕上げとして4月6日に恒例の今津〜大津間60km遠泳の途についた。ところが、高島町沖合約1kmのところで突然の気象変化がおこり、地元の漁師も  恐れる突風「比良おろし」に遭遇して、部員とO1OB11名全員が湖底に消えたのである。

  旧制四校(現金沢大学)
   この遭難を歌った「琵琶湖哀歌 you tube」は「琵琶湖周航の歌」に隠れてメジャーではありませんが、哀愁のある良い歌です。
 昭和16年、11名の部員、OBを追悼するために植樹された「四校桜」は老木であり枯死の危機に陥っています。

  ひがし茶屋街
 浅野川の岸辺に位置し、江戸時代から花街として栄えてきた。
 格子戸の家が連なる町並みは、金沢ならでの散策路です。 
 
KKRホテル金沢
で昼食 
← 東茶屋街→  

長町武家屋敷 
 鞍月用水と大野庄用水にはさまれた、加賀藩の中級武士達の居住地。
 一帯には石畳の路地が入り組んでいる。 

  伝統ある文化、芸術、遺跡、自然の景観と温泉、グルメなど観光の究極をご案内いただいた杉本会長以下役員各位の企画力と運営力に敬意を表します。
お陰様で参加された滋賀県人会会員の皆様と親しく交流、親睦ができました。