宇多源氏(近江源氏)と越後加地氏のルーツ

 <新潟滋賀県人会中村会長の講演より>
 平成20年7月6日(日)、新発田市に在る中世時代からの名刹「香伝寺」の大般若と護持会(檀家の会)総会が催され、会員120余名の方々に表題の講演をされました。
 なお紙面の都合上、講演内容を一部割愛しております。
                                                  2008.7.16
                                                  新潟滋賀県人会
                                                  事務局長 市井 康三

 新発田溝口藩は初代の溝口秀勝公が加賀の大聖寺から越後新発田に入府された慶長3年(1598年)から410年をむかえています。
 
 溝口藩の歴史は慶長3年(1958年)から明治4年(1871年)まで273年間であります。それと比較すると、いわゆる越後加地氏の歴史は約450年間という長い歴史であり、概ね800年前から400年前まで、即ち、鎌倉幕府創設の頃から関ケ原の戦いまでという中世の鎌倉、室町、安土桃山時代のことです。
  
 建久3年(1192年)平治の乱後、平氏によって伊豆に流されていた源頼朝は鎌倉に幕府を創設し朝廷の承認を受けて、地方の国々に「守護」を、荘園や公領には「頭」を配したのですが、現在の新発田地方(加地の庄、主として加地川流)を治めたのが源頼朝の命を受けて加地の庄の地頭となったのが佐々木三郎盛綱です。

  宇多天皇から数えて10代目。5代目の重頼が初めて佐々木氏を名乗ったとされていますので、重頼から数えて6代目にあたるのが佐々木三郎盛綱公です。盛綱公は5代目秀義の三男です。

 太郎 定綱・二郎 経高・三郎 盛綱・四郎 高綱・五郎 義清の五人兄弟は父秀義とともに頼朝の鎌倉幕創設に協力し大く貢献した為頼朝の信頼が厚く、長男の定綱が近江の守護職になったほか、一族で17箇所の護職になったと伝えられています。

 この中でも頼朝が最も深い信頼を寄せていたのが、三男の三郎盛綱であり、盛綱は伊予の国(愛媛県)守護職を主として、備後の国(岡山県)の児島、越後の加地、上野の国(群馬県)の磯部など荘園を支配していいたといわれています。

 加地の庄の地頭となってからは平安時代から越後の国を支配してきた平氏の一族で、現胎内市中条町の鳥坂山の城 資盛の反乱を平定し、越後の守護にもなりました。盛綱が加地の庄を支配していたことから、長男の信実は加地明神の社前で元服し、「加地太郎信実」と名乗ったということです。当時は統治している土地の地名を名乗る慣わしだったのでしょう。 盛綱公の長男信実が越後加地氏の初代ということになります。

 信実公の8人の子供がそれぞれ独立したわけですが、長男 秀忠を除く次男 実秀以下八男 信朝までの7人がそれぞれ加治氏、新発田氏、新津氏、竹俣氏、桜井氏、福王寺氏、嶋氏という所謂「加地の七家」となり、その子孫は19代、約400年の長きに亘って榮え、この地方を支配したといわれています。

 加地太郎信実公から数えますと加地17代である加地安芸守春綱公が、村上の曹洞宗の古刹、耕雲寺の八代目の住職として招かれ、加地の庄であった倉光に新しく曹洞宗の「香伝寺」を建立し、加地氏の菩提寺とされたとの史実を、香伝寺三輪住職様からお聞きしました。
 
講演風景    名刹香伝寺 本殿 座禅堂   推定樹齢300年
座禅の松 
  加地家家紋
四つ目結
駕籠(実物)  藤間護持会副会長と中村会長・蔵の前で  藤間副会長・市井夫婦