(5-1) 日本の教育再生を願って 「特攻出撃直前の終戦」

                                              新潟滋賀県人会
                                              会長 中村 五郎
                                              平成19年(2007年)12月15日

 昭和4年3月28日に貧農の10人兄弟姉妹の8番目の5男として出生し、昭和16年3月南五個荘尋常高等小学校尋常科を卒業。同年4月県立八日市中学校に進学しましたが、その年の暮れも近い12月8日、真珠湾攻撃が行われ、日本は不幸な米英両国を相手とする大東亜戦争(太平洋戦争)に突入したのでした。(太平洋戦争の呼称は戦後占領軍がつけたもの)
 
 第三学年だった昭和18年10月陸軍特別幹部候補生第一期生の募集が始まり、朝夕、八日市中学校近くの陸軍飛行第三?隊の軍用機の爆音と離着陸する勇ましい操縦者の姿に刺激されていたわたしは憧れの飛行機乗りに志願、合格し、全国の合格者3,000名中、最年少(同期生は15歳から)生徒として、福岡の大刀洗陸軍飛行学校に翌年昭和19年3月末に入校したのでした。


朝鮮(現韓国)忠清南道大田教育隊で基本操縦。京畿道 京城(現ソウル) 汝矣島(よいど)飛行場で練成教育を受けた後、昭和20年5月、と号(特攻隊)要員の指名を受け、黄海道海州飛行場に移動。その後は専ら特攻攻撃の訓練を積む毎日が続きました。
 8月に入り、日本本土上陸を企図し、東シナ海から日本海に侵入して来る敵艦船を済州島近海で突撃撃破せよとの特攻出撃命令を受けたのでした。
       「わたしの辞世の歌」
        君が為 何か惜しまむ若桜
           散りて甲斐ある生命なりせば
 

 「と号要員」(特攻隊要員)の6名
特攻出撃前に「遺影」とするために撮影された中村伍長 16歳。
1945年4月12日、知覧基地より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊穴沢利夫少尉(のち大尉)操縦の一式戦闘機三型甲「隼」と、それを見送る知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)の女学生達
 南鮮の特攻出撃基地となっていた木浦(もっぽ)への移動を命じられ、特攻出撃体当たり2〜3日前の8月15日、終戦を迎え、死の直前に命拾いをして、同年の10月14日、無事郷里に生還復員したのです。

 当時わたしは未だ16歳の少年でしが、恐らくこの話を聞く皆様は到底、信じることは出来ない話だと思います。
 しかし、事実あったことで、これこそ嘘のような本当の話≠ネのです。
 国家存亡の危機にわたし達、若い特攻隊員は全員が国家の為、天皇陛下の為、国民の為に自分の命を捧げる事は日本男子として最高の名誉である≠ニ教育され、何の疑いも無く純粋にその通り信じ、何の恐怖心も死を回避する気持も抱かなかったのです。
 至高∞至純≠ニ云わずして何と表現すればよろしいのでしょうか。嗚呼。

 平和と繁栄を信じ、敢然として国の為、自分のいのちを投げ打って死出の旅についた多くの若き特攻隊員の皆様に合掌し、ご冥福を祈らずにはいられない気持で一杯です。
 
 終戦の翌年春、県立八日市中学校を卒業し、神戸経済大学(現神戸大学)に学びましたが、途中で病気の為中退し、4年程、日本通運彦根支店に勤務した後、次兄の要請で昭和26年3月、新潟に移りました。それから56年余りの歳月が流れました。
 
 昭和29年(1954年)10月わたしは独立を決意し25歳の独身で無一文でしたが個人で事業を創業し、今日まで、533年間、事業活動に没頭して参りました。

 このような経歴を持つわたしは戦後62年間、常に毎日の生活を天から頂いた“二度目の人生”と考え、日々を感謝しながら大切に、一生懸命生きて参りました。
 
 

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